1月2010

命の力、見誤るな

 昨年暮れ、ある地方都市の市長が「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている」とブログで語り、講演でも「木の枝先が腐れば切り落とし全体として活力のある状態にする」「社会をつくるには命の部分に踏み込まないと駄目だ。刈り込む作業をしないと全体が死ぬ」などと語ったという。

 経済が悪化するとこういう意見に賛成する人も多くなり、逆に感情的な反発も耳にするが、医療への認識という点で、この見解は理論的に誤りである。高度医療は確実に多くの命を救っている。しかし、すべての人を救える訳ではない。医療はそれほど万能ではなく、生命を支配できない。あくまで手助けである。どれほど手を尽くしても救えない命もある。最終的に助かるのはその人の生命力。だから、助かる生命は自然が社会に与えた命としてうけとるのが当然だろう。

 さて、ある高学歴エリート家族に障害のあるお子さんが誕生した。祖父は世間体を気にする大企業の重役。衝撃と混乱を経て、一家にそれまでない結束と温かさが生まれた。生産性向上、高い地位、高学歴のみをよしとしてきた家族に、別の価値観が生まれたのだ。不思議なことに、家族はそれまでより明るく幸せにみえた。いつまで生きられるかわからない小さな命と共に過ごす時間を、大切にいとおしく思えるようになったからだろう。その命は決して腐った枝先ではなく、逆に家族に新しい活力を吹き込んだのである。

 今、人間が自然や命を支配していると錯覚する人がいる。自然はそんなに小さな存在ではない。森の木々は人間が刈り込まないからこそ生きてきたともいえる。木々は枯れた枝を落とすが、それは木自身が決めること。もし枯れ枝と共に木が枯れるなら、それは木が枝と共に死にたいと思うときではないだろうか。

あったらあったで

 今回も当たらなかった、とはずれた宝くじを眺めた方もいるだろう。これだけ景気が悪いと、宝くじに頼みたい気持ちにもなる。私もこの2年間、アメリカで研究生活をして日本との間を往復しているので、家賃やら交通費やらでやりくりが本当に大変だ。お金があれば、もっと安心して研究生活を送れ、データ入力をする人の人件費も払えるのにと思うが、お金というのは、あればあるでこれまた大変らしい。

 お金にゆとりのある家庭の息子さん。親の仕事を手伝っていたが、親の反対する女性を好きになり、独立しようとした。ここまではよいが、それまで外で働いたことのない彼は、次々と職場をやめたり、リストラされてしまった。借りたマンションも、育った豪邸とはちがうのでイヤ。彼は、プールもテニスコートもある家で育ったのだ。

 もうひとふんばりすれば新たな展開もあるが、親も心配でお金を与えてしまう。彼は実家に帰り、それでも恋人とは別れずどっちつかずのままだ。

 お金がないと生活は苦しい。しかし、お金があれば安易な解決でその場をやりすごす。結局、問題を隠したままで時が過ぎる。前述の例も、お金が息子の自立をはばんでいる。

 お金は、あってもなくても大変なのだ。お金さえあれば、と思うが、手にした途端、無意識の慢心を生む。お金があっても幸せになれる人は、なくても幸せだろう。「お金さえあれば幸せになれる」と思う人も、「お金があっても幸せになれない」と思う人も、どちらもお金とうまくかかわる人にはなれないだろう。お金があっても幸せになれるのは、多分、マザー・テレサのような人。

 それにしても、大金はなくとも、働く場、働いたら自活できる給料は最低限必要。今の政権に宝くじは期待しないが、地道に生きようとする人が人生を悲観せずに歩める環境を望んでいる。

今しかできないこと

 せっかくの大学生活なのに、大学にこないでバイトばかりする学生がいる。学費や生活費に困るわけではなく、遊ぶ金がほしいからと聞くと、本当に残念だ。人生には、その時にしかできないことがある。時期を逃すと、後で同じことをするのに苦労がいる。人生は季節とよく似ている。冬に泳ぐのも夏のスキーも大変だ。お金をかけて、遠くに旅行しないとできない。

 しかし、人間というものはどうやらすぐ、「その時にしかできないこと」を忘れて、別のことをする生き物のようだ。新しい年をむかえてひとつ年をとったわけだが、「その年じゃなきゃできないこと」なさっていますか?

 年を重ねるにつれて、「自分はまだ、若いころと同じようにこれができる」と誇らしげに語る方が多い。それは結構かもしれないが、私自身は、若くなくちゃできないことを追い求めるのはやめにした。年をとったら、年をとらなくちゃできないことがあるからだ。年をとる、という一見ネガティブなイメージの環境でも、「その時にしかできないこと」を見つけようと心がけると、しゃんとするものだ。

 ものごとがうまくいかなかったり、経済状態が悪かったり、病気になったり、人生にはさまざまな季節がある。その時々で「その時しかできない」ことに焦点をあてると、ストレスフルな状況が全く違ってみえてくる。

 医師フランクルの著作で、脳腫瘍になった男性の話が紹介されている。その男性はたしか専門職をもつ有能な人だったが、病気のため仕事ができなくなった。そこで、病床で本を読みはじめたが視力も失い、今度は音楽をききはじめた。

 しかし聴力も失い、激痛で医師に麻薬を打ってもらうようになる。最後に、彼は自分を世話する医師や看護婦を思いやりながら亡くなる。大変な時代とは、若さを誇ることより、大人の生き方を示す時でもあるのだ。

harvard

1月14日〜またharvard の研究室です。

南こうせつと仲間たち

2月9日午後9時05分
NHKラジオ第一 南こうせつと仲間たちに出ます。

田舎のかわいい奥さん

 昨年の暮れ、タクシーに乗った時のこと。東北出身の運転手さんが、「今度の正月は田舎に帰れません。売り上げが悪くて」と話していた。でも、運転手さんの表情はちっとも暗くない。

「田舎にかわいい奥さんがいるんですよ」と自然に言うので、微笑みがこぼれた。思わず、「結婚して何年なんですか」と聞いたら、「20年です」との答えが返ってきた。子供が3人いて、お金がかかるから、家に帰らず東京で仕事をするのだという。きっと温かい家庭なんだろうなあと想像し、20年たっても妻をかわいい奥さんと言えるなんて、いいなあと思った。

 不況の時代、経済状態が悪くなって家族の仲がぎくしゃくする家庭も多い。アメリカでは、経済状態が悪くなると低所得層で家庭内暴力が増えるケースもある。

 お正月を家族そろってむかえられないのはさみしいだろう。しかし、不在だからこそ相手の大切さをよりしみじみと感じることもあるだろう。いつもいる相手だと当たり前になってしまうのは、人の常である。いないからこそ感じられる相手のよさに気づき、それを味わえるのは、幸せの資質をもっている人だろうと思う。

 世間一般のものさしでいえば、売り上げをあげるのがよいことで、売り上げをあげれないのはよくないこと、みっともないことになる。正月に家に帰れないのをだらしない、なんていう人もいるだろう。

 一方、20年一緒にいる妻をかわいいと感じ、正月に一人で働くことに不平不満ではなく、子供の成長を楽しみにして仕送りできるのは、「幸せの資質」のものさしだ。目にみえないそうしたものさしをもった人は、自分だけでなく周囲をも幸せにする。もうあれからしばらくたったが、タクシーをおりた時の温かい気分は、今も私の中に続いている。いい年でありますように、と心からそう願う。