昨年暮れ、ある地方都市の市長が「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている」とブログで語り、講演でも「木の枝先が腐れば切り落とし全体として活力のある状態にする」「社会をつくるには命の部分に踏み込まないと駄目だ。刈り込む作業をしないと全体が死ぬ」などと語ったという。

 経済が悪化するとこういう意見に賛成する人も多くなり、逆に感情的な反発も耳にするが、医療への認識という点で、この見解は理論的に誤りである。高度医療は確実に多くの命を救っている。しかし、すべての人を救える訳ではない。医療はそれほど万能ではなく、生命を支配できない。あくまで手助けである。どれほど手を尽くしても救えない命もある。最終的に助かるのはその人の生命力。だから、助かる生命は自然が社会に与えた命としてうけとるのが当然だろう。

 さて、ある高学歴エリート家族に障害のあるお子さんが誕生した。祖父は世間体を気にする大企業の重役。衝撃と混乱を経て、一家にそれまでない結束と温かさが生まれた。生産性向上、高い地位、高学歴のみをよしとしてきた家族に、別の価値観が生まれたのだ。不思議なことに、家族はそれまでより明るく幸せにみえた。いつまで生きられるかわからない小さな命と共に過ごす時間を、大切にいとおしく思えるようになったからだろう。その命は決して腐った枝先ではなく、逆に家族に新しい活力を吹き込んだのである。

 今、人間が自然や命を支配していると錯覚する人がいる。自然はそんなに小さな存在ではない。森の木々は人間が刈り込まないからこそ生きてきたともいえる。木々は枯れた枝を落とすが、それは木自身が決めること。もし枯れ枝と共に木が枯れるなら、それは木が枝と共に死にたいと思うときではないだろうか。