2月2010

JAL破綻に思う

 日本航空(JAL)が破綻したというニュースをボストンで聞いた。経営が甘いとか、エリート意識がよくないとかいう批判が目立つが、私はこれらの批判に疑問を感じている。仕事でさまざまな航空会社を使ったが、私はJALほど特殊な利点をもった航空会社はみたことがない、それは「利用者への共感性」ということで、この特徴故にJALは経営破綻したのではないかと思う。JALは本当に親切だ。

 私はJALの知人親類がいるわけではない。しかし、欠航しようが遅れようが情報さえきちんと流さない外国の航空会社に苦労したから、海外でJALが飛んでいる場所に着くと心からホッとする。アメリカで国内線に国際線から乗り継ぐ時は、まるで戦場にいるようなストレスなのだ。

 ふだん日本にいると、いかに日本の航空会社が利用者のことを考えているかに気づかない。充分な共感性をもって利用者に対処するには従業員をカットできないし、給料の保証も必要だ。「人間」とかかわる仕事は、経営と仕事の質の保持が相反することが多く、それは医療ととてもよく似ている。

 かつてクリニックを経営していた時、クライアント(患者)にきちんと説明できるようスタッフを増やし、各専門家に給料を十分払っていたら、いつも赤字だった。いい医療といい経営とは、はっきり言って別物だ。アメリカで日帰り手術を受けた人が麻酔がやっときれてフラフラしている時、迎えがこないのに看護師に時間だからと帰らされ、驚いていた。

 わが国独特の共感性をもつ対処に、私たちは慣れきっている。人とかかわる仕事で経営が優先された時、失ったものに気づいても遅すぎる。JALのサービスに過剰に依存し甘えていた部分が、我々利用者になかったか。この破綻の原因は、単に会社自治体だけでなく利用者の過剰な要求とJALの過剰適応にあったと思う。

数の論理

 ある会から、会員が数千人に達したという報告の文書が届いた。書面には誇らしげにいかに会員が短期間に集まったかという内容が記されている。それはまったくまっとうでごく普通のことなのだが、私は常々こうしたごく普通のことに「アレ」という気分になる場合が多いのだ。

 確かに、数が多くなればパワーにはならない。ものは売れなければ、視聴率は上がらなければ、力にはならない。学問の世界でも学会の会員数が多くなければ力は弱いし、政治でも数が揃わなければ政権は握れない。

 だから、「数」は社会の基準となっている。支持する人が多いことは、人気のバロメーターだ。では逆に、「数」の論理で負けているからそれはダメなものだろうかというと、逆は必ずしも真ならず、である。私事だが、私の本はベストセラーになったことがない。数の論理からみるとダメな商品である。何十万部も売れたらさぞ気分が良いだろうだろうた思うが、先月、出版社から転送されてきた一通の手紙を受けとった。

 それは読者からのもので、「この本は自分のために書かれたと感じて、泣きながら読みました」と記されていた。数の論理の栄光は得られないが、この手紙は私の宝物だ。数の論理はパワーを生む。何百万人が泣いてくれればもっとうれしいと思うかもしれないが、それはあり得ない。

 なぜなら、数の論理を基準にものを選ぶ時、そのものを求めているというより、「より売れている」「みんなが求める」ものを買おう、参加しようとして選ぶ人も増えるし、それをもとに何か商売しようと考える人も増えるからだ。数の論理と幸せの基準とは、往々にして噛み合わないことが多い。経済や政治は数の論理で動く。しかし、学問や芸術、人間関係という分野では、それ以外の幸せの基準も残しておきたいと思う。

「嫉妬」考

 父親が企業社長のAさんは、二代目といわれるのが嫌いな努力家。アメリカに留学して卒業した。ところが、それでも周囲からは、経済力があるからできるのね、などと陰口を言われ、怒りを感じている。Aさんの家族は、言いたい人には言わせておけばいい、負け犬の遠吠えだ、などと言う。

 努力をしてもコネなのでは、とうわさされるのが恵まれた立場にある人のつらさ。こうした陰口は嫉妬から生まれるわけで、私も昔「父親が医者だから医学部に行けたんでしょ」とか、「子供がいたらそんなに仕事できないわよ」などと言われたものだ。

 アメリカで研究するようになると、「誰の紹介でルートを見つけたんですか」などと言われ、結構驚く。いろいろ言われるとカチンとはくるが、私はそうした発言に込められた無念さに共感する。嫉妬の奥に、「自分もそうしたい、そうしたかった」という思いと、できなかった悲しみが込められている。その人は決して努力しなかった訳ではないだろう。努力しても条件が整わなかったり、努力が実る環境になかったり。ほんのわずかなボタンのかけ違えでできないことはあるものだ。

 努力家で、努力をすればものごとが成就する環境にいる人は、恵まれた人だ。いわゆる世間の勝ち組はそうした人で占められているから、努力してもうまくいかない人がいることなど想像もつかないかもしれない。しかし、カウンセリングでさまざまな方とかかわると、素晴らしい資質をもちながら努力する時期を逃したり、努力が結果に結びつかなかった人がいるとわかる。

 嫉妬の言葉は、その人の無念さの吐息のようなものである。それを負け犬の遠吠えなどにたとえてはならない。本当の勝ち組とは、その悲しみを理解しつつ、自分の恵まれた立場を、それができなかった人の分までがんばろうと努力する人なのではないかと思う。

すべての人生は生きられない

 私は時々ジャズのライブをしているのだが、先日、会場にかわいい花束が届いた。送り主は元ゼミ生だった。電話をすると風邪声で、「行きたかったんだけど、風邪でダウンしました」と言う。彼女は私のホームページを見ているそうで「先生は新しい本を書いたり研究したりすごいなあ」と続けた。

 私は内心、それは違うよ、とつぶやいた。彼女は子供が大学に入学したのにあわせて、自分も学生になった。ゼミで女性学を学んだ時は50歳過ぎで、卒論では、慣れないパソコンを使いつつ、何度か涙を流した。学問に向いているとはいえないかもしれない。しかし、彼女は家計簿をつける研究グループに参加しており、家計のきりもりはまさにプロだった。ゼミの時、彼女が千円の予算で家族全員分の夕食を作る話を聞き、その内容の充実ぶりと見事さは、彼女にしかできない仕事だと感心したのをはっきり覚えている。

 人はあらゆる人生を生きることはできない。ひとつの人生を選び、それ以外の人生を捨てて生きていく。彼女は学問や研究をしている人がうらやましいかもしれない。しかし、彼女も彼女にしかできない人生を歩んでいる。

 今は両親の介護と家事に戻った彼女にとって、大学生活は捨ててしまった人生の一部を生かしたひと時だったのだろう。それはすてきなことだ。私は子育ても介護もしていない。だから、他人の娘たちや母親たちの手助けをしている。そしてものを書いたり歌ったりする。

 どんなに、これでよし、と自分で選び進んできた道でも、年をとるとこれでよかったのかしら、という気持ちが浮かぶ人が多いのではないか、と思う。そんな時は、自分が捨ててしまった人生の一部をちょっぴり今の自分の人生に加えてみよう。彼女が勉強してみたように。「時間を作ってゼミにいらっしゃい」。そう彼女に言って、電話を切った。

夜の研究室

月がきれいな夜の研究室。

Boston common

公園の池がこおり、スケートしている。