3月2010

結果がすべて、ではなく

 アメリカの大学の研究室では「publish or perish」(出版か死か)という風潮がある。つまり、大学の研究者は論文を発表しなきゃダメ、論文として学術誌に載らない研究はゴミ、という訳だ。したがって、論文や書物を発表しない大学教授や准教授は研究者として認めてもらえない傾向が強い。

 とくにハーバードなどでは、教授たちは実にせっせと研究して論文を書く。どちらかというと、学生教育で「いい教授」と評価される日本とは、やや違う。研究して論文を発表するのはすばらしいが、アメリカ社会には「結果主義」の傾向が強い。

 すべてに結果を出さなきゃダメ、全か無か、という思考は利点も多いが問題も多い。オリンピックでアメリカ選手がメダルを多くとるのは、「結果主義」の思考性の中で育ったからだろう。参加するだけなんて意味がない、メダルをとらなきゃ税金のムダづかい、との無意識が、エネルギーになるのだろう。オリンピックは参加することに意義があると教えられてきた我々とは、違う思うがあるのかもしれない。

 日本は甘い、結果を出さなきゃ意味がない、という人も最近は増えてきた。しかし、努力しても結果が出ないことはたくさんある。結果が出ないとダメ、結果を出せない人間は無能、などと考えると、これは大変だ。結果を出せないと生きるのがつらいし、結果を出せる人は、出せない人を否定する。結果のために無理をしたり、薬を使うこともある。大体、結果とは何か。メダル、利益、偏差値と目に見え、数字やもので表せるものばかりだ。

 メダルをとれなかった選手をテレビで応援したり、はらはらしたり、ときには批判するひとときを楽しんだ人も多いだろう。そんなひとときは数字で表せない。けど、大事な一瞬だ。いいじゃない、結果を出せなくても、という私は多分大甘ですね。

効率と「ながら食べ」

 アメリカ人は「効率的」という言葉が好きだ。研究でも日常生活でも効率という言葉にすぐ出合うのだが、何といっても、時間を効率的に使うことにしのぎを削っているように思える。一見よいことのように感じられるが、みなさんはいかが。

 例えば、アメリカでは「ながら族」をよくみかける。食べながら何かしている、というパターン。
 私のいるハーバードでもそんな風景に出合う。なぜなら、ハーバード大大学院には、「お昼休み」がないのだ。院生は朝から1単位3時間程の講義を受け、午後もそのまま次の講義に出たりする。だから、12時ころには机にお弁当を広げ、食べながら聞いている。ダナ・ファーバー研究所でも、ランチタイムレクチャーという外部講師による勉強会がある。これもピザなど食べながらきく。

 食事の時間なんてとるのは効率的じゃないから、一度に2つのことを同時進行しましょうという訳だ。ハーバードの関連病院のロビー階で迎えのバスを待つ間も、多くの人々は何かをつまんで口にしている。待つ時間を効率的に使う、という無意識の方向性が働いているのだろうか。

 私自身は、こういう類の効率化はしない。食べながら何かすると食事の楽しみも減るし、同時進行している別のことも集中が減るように思う。しかし、プログラムが効率優先で組み立てられ、食事の時間もとれなくなったら「ながら族」もやむなしとなる人も多いだろう。これでつく食べながら何かをする習慣が肥満につながるのだろう、と思ったりもする。

 日本でも、アメリカのあとを追いかけ、模倣してきた効率化の波によって、「一つのことを大事に集中してする」という概念がないがしろにされるのが心配だ。ティックナットハンという僧の言葉「歩くときは歩くことに、みかんの皮をむくときはそのことに集中しよう」を思い出したりする。

工夫しながら過ごす

 ボストンで朝一番にするのは、地元のFMラジオのスイッチをいれることだ。数分毎に流れる天気予報を聞くためである。

 冬のボストンの気候は本当に厳しい。寒いのはもう慣れっこだが、天気がかわりやすく、朝晴れ上がっていても昼過ぎから突然雪嵐がやってきて夜はまた晴れて月が出る、みたいなことは日常的。雪の後、夜になって晴れると道はカチカチに凍ってスケート場になる。ここにきて、2週間で2本の傘が雪で壊された。傘の骨が折れるのでなく、傘が途中から折れて飛んでいってしまったのだ。雪嵐はすさまじく、体重の軽い私は夜、風が強いとリュックの中に辞書やら何やら重いものを入れて飛ばされないように工夫する。

 こんな日はアパートに帰りつくだけで精いっぱい。食料の買い出しにも行けないから週刊予報を調べて計画を立てる。お天気と相談しながらの生活は不便だが、気づいたことがある。それは「自分の力でどうしようもない相手といかにかかわるか」ということだ。東京にいる時のように、自分の食べたいものをその日に買うなどということはできない。だから、工夫しながら天気とかかわり、どうしようもない時は「まあ仕方ないか」とあきらめる。そして天気のいい日をうれしく過ごすという感覚が大切なのでは、と思う。

 日本では、「お金で何でも買える」と思っている若者も増えている。気候が温暖で、自然を人間がコントロールしているかのように感じ、道具や機械が発達し、何でも便利になった日本ではそう思うのも無理はない。自分の思い通りにならないとイライラするのは、思い通りにならないことや相手とかかわるのに慣れていないからである。

 便利さと機械の発達と恵まれた環境故に失ってしまった感覚、退化した感覚は多い。工夫しながら過ごすという、ある種創造的でシステマティックな能力をとり戻したい。

環境の影響で

 かつて、外でお酒を飲んで帰ってくる夫に、妻は「家にもお酒があるのにどうして外で飲むの」と文句を言ったものだ。確かにそうなのだが、行動には環境が大きく影響する。

 日本の自宅でも、パソコンで職員パスワードを使いハーバード大学から文献をダウンロードできる。だが日本にいると、日々の業務に追われてじっくり文献を読むこたができない。週末のボストンでも、アパートで部屋にいるとミーティングの資料を作れないが、近くの大型書店内にあるコーヒーショップに座ると突然原稿が書ける。

 そこで、今もそんな状況で仕事をしている。周囲はパソコンを持ちこんで仕事をする人や文献をよむ人ばかりで、世間話をしている人は1割以下だ。あらためて、ものごとには周囲の環境が影響することと、人は一人一人別々の存在ではなく連動しあっていることに気づかされる。たとえばここで、ものを書いている時、いかに集中していても、隣でバナナなどを食べはじめ、足を投げ出して本を開く人がいると、集中がさえぎられてしまうのだ。

 周囲に集中して勉強する人がいれば、その気分がまわるに伝わるし、幸せな気分の人はまわりにもそれが伝わる。逆にイラオラしたりだれている人の横にいると、こちらも影響を受ける。音やにおいの他に「気分」も目に見えないが人と人をつないだり、ブロックする要素になるのだとう。

 あくびは伝染するとよくいわれるにはそうした意味なのだろう。外でお酒を飲むのは、お酒そのものの他に、解放された気分を共有したいという願望にほかならない。子供に勉強しなさい、といいながら自分はテレビを見ていても、子供はその気にならないだろう。

 というわけで、今年度のゼミk募集には、あえて「しっかり勉強したいと思う人」、卒業研究には「研究したい人」と注意書きを加えた。