日本とアメリカを往き来するうちに認識をあらたにしたのは、「デッドライン」すなわち「締め切り日」の厳密さである。日本でも「絶対」に締め切りを守らなければならないケースはもちろんあるが、「事情」あるいは「個人」によって、締め切りは必ずしも守られない。

 例えば大学のリポート。締め切りはあるものの、学生に「すみません、書いてきたんですけど家に置いてきて」と言われると、つい「明日でいいよ」などと答えてしまいがちだった。ところがこの2年あまりアメリカの大学院を見て、とてもそんなことは言えなくなってしまった。

 アメリカの場合、デッドラインは厳密である。何度も確認して日付が通知されるから、その日に持参するかメールに添付しなければ、「やっていない」あるいは「集中力欠如」と評価される。事情だの、何だのというグレーゾーンや情状酌量はない。

 日本では、このスタイルは融通がきかない、とされる。昨日、リポートを忘れてきた学生に「明日ではダメ」と答えたら、どうもとんでもなく「ものわかりの悪い」、頭のカタイ教師と思われたようだ。だが、日本方式をアメリカで通そうとしたら、信用はなくなるだろう。特に自分で締め切り日を決めておきながら守らず、できない理由を明確にしなければ、失格になる。普天間飛行場問題での鳩山首相は、このままだと、単に移転先が決められないだけでなく、国際社会のルールを守れないという負の評価を下される。

 それにしても、飛行機や電車の時間は極めて厳密なわが国で、政治や学生のリポートの約束日が守れないのはどうしてか? 答えは簡単。国民や教師が「まあいいでしょう」と、物わかりよく許してきたからである。ささいな積み重ねが、国際社会のコミュニケーション不全の引き金にもなる危険性を痛感している。