日本経済はデフレに陥り、不況感が高まっている。ものに満たされたのだから、次は自分らしい生き方をしようなどといっていたのは遠い過去の話になり、今は老後の不安で、とにかくものとお金が最優先というムードになっている。

 作業の効率化、人件費カットが叫ばれ続け、いつの間にか、日本は再び結果を追い求める社会になり、こころの問題はどこかに追いやられている。衣食住が足りなければ、そんなゆとりは生まれない、と思われがちだ。しかし、物質的の満たされない社会だからといって、必ずしもこころが満たされないわけではない。

 20年前、アメリカのカーボベルデ共和国に行った。大西洋に浮かぶ小さな貧しい島国だ。食料も水も薬も足りないが、人々はすさんでいるかというと、決してそうではない。少ない水を甕に入れ、頭上にのせてみなで運び、病人や老人にわけて、手助けをする。

 効率で考えれば切り捨てるべき人の手助けを当たり前だと考え、明るく協力し合い、歌いながら水を運んでいた姿は、今も私の脳裏に焼き付いている。
仕方なく手助けをするのと、当たり前だから手助けをするのとは違う。せねばならぬことと、自然にできることの違いともいえる。この差は、他者に共感できる力の差でもあろう。

 自分の右腕が疲れたら、左手でマッサージをする。肩がこったら、手で肩をたたくし、指をケガしたら思わずおさえる。指をケガして、おさえもせず放っておくなどということはないはずだ。なぜならそれは「自分の体」だから。指も肩も手も、すべてが自分であり、つながっているから自然にできる。指の先をほんのちょっと傷つけても、不快は全身に及び快調ではない。

 社会もそれと同じ。誰かが苦しんでいたら、体と同様に快調とはならない。そのことに気づく人が少ないのは残念なことだ。