危機的状況は人間のもつ強さや温かさをはっきりとさせる一方、社会の問題点を浮上させる。今回は、震災で見せつけられた日本社会の2つの問題点を考えてみたい。

第一は「エビデンスの欠如」である。スーパーで、茨城県産レタスが普段の半額で山積みになっていた。しかし売れていない。買うのが一番の直接的支援なのは分かっているのに、ためらう人が多い。いわゆる風評というわけだが、風評が生じる理由は不信とイメージづけであり、それを打開する方法はただひとつ、「エビデンス」である。これが決定的に不足している。

エビデンスは証拠と訳されるが、放射性物質の検査数値を示すだけでは足りない。茨城のレタスを例にとるなら、それが健康被害を生じないことの証明を示すのである。

その産地のレタスのうち、どの地域からいくつのサンプルを選んで調べたかを明記。さらに、そのサンプルの選択が産地全体を統計的に代表できると明記。続いて放射性物質の値を報告。最後にその値が規制値内であると示せば、エビデンスは成立する。

ついでに言うなら、その産地で最も放射性物質が飛散したであろう地域を気象情報で調べて、その場所から選んだレタスで検査すれば完全である。この報告を一度でもしてくれれば、風評などおこるわけはない。そうした発表さえあれば、よろこんで産地支援をしてくれる人々がたくさんいるだろう。

しかし、枝野官房長官は、野菜の出荷制限の解除について記者会見で語った際、安全だという報告があったと「聞いています」とだけ述べた。そんな他人事では風評がおこる。エビデンスを自分で確認し、責任を持つことから逃げてはならない。なにも、私は官房長官を責めているのではない。今までの日本社会はエビデンスなどと言わなくてもそれで通ってきた。それだけ平和だった。命をかけて証明しなければならないことなどなかったのだ。

しかし、今回は違う。医療現場と同じで命がかかっている。文字通りの「生命」と共に、何万人もの農業、漁業、畜産業にかかわる庶民の生活のすべ、命もかかっている。エビデンスをしっかり示し、命と産業を守らねばならない。冷静になってください、と叫ぶ政府の対応が最もエビデンス不足で感情的だ。街頭で北関東産の野菜をほおばるのは、感情的な対応である。

アメリカでは事あるごとに「エビデンスは?」ときかれる。いくら話をしてもそれを提示しなければ進まない。政治を変えるには、まず記者会見で記者が「エビデンスは?」と質問すること。記者がやってくれないなら、消費者がスーパーで「エビデンスは?」と聞く。スーパー担当者が納入先に確認し、「エビデンス」の習慣をつくっていくしかない。エビデンスの流れが高まれば、政府も対応して変わるしかないはずだ。

第二は、原発事故の深刻度のレベル変化で分かるように、政府の対応が「みんなにショックを与えず、パニックをおこさないこと」を最も重視していることだ。

この対応に、30年ほど前までの医療現場を思い出した。当時、医師は患者に悪性の病名を伝えて、ショックを与えてしまわないことを重要視した。患者さんも真実を知るのが怖くて、「おまかせします」と言うだけの一方的な治療がされていた。しかし、病気と闘うにはどんなに過酷な現実でも直視して、情報を共有せねばならない。多くの人々の努力と涙の末、今、カルテは開示され、医師だけが権力を持つ医療から脱皮した。

政治家は、日本国民はすぐパニックになると考えている。しかし、それは違う。私が2008年に調査したところ、年代を問わず95%以上の人々が、悪性疾患にかかった場合、自分の真の病名と状況を知り、それを受け止めるものだと考えている。国民は、より成熟している。

エビデンス、そして現実を直視する、日本社会に不足してきたこの2つを変えるのは、今しかない。そして、今回これに失敗したら、もう日本は二度とチェンジできないという危機感を、私はもっている。