食事も忘れて

 栃木にある大学で教えているから、通勤は東京から新幹線だ。昼は外に食べに行く時間がないため、お弁当を持参する。その日は、昼休みに卒論指導をしたから昼食はパス。朝食は十分とったし、空腹ではないから、お弁当は帰りの電車で食べることにして、午後の講義の後、気になる学生を呼んで、話を聞いた。ディスカッションに集中せず、逃げ腰なのが心配だった。

 内容が面白くないのか、と尋ねるとそうではないという。よくよく聞くと、学ぶこと自体は楽しい、面白いと感じたことがないのだという。本も、難しい言葉や漢字、専門用語を飛ばして、読むのをやめてしまう。調べるのが面倒だから、結果としてそこで止まってしまう。ボキャブラリーが少ないから、討論で自分の意見も言えず、逃避してしまうのだ。

 それではさぞつまらないだろう。私は懇切丁寧に教えるいい教師ではない。でも教師である以上、大学生に「研究することの楽しみ」を知って卒業してほしいと思っている。

 人から与えられたものを「学ぶ」だけでなく、自分の見つけたテーマを「研究」するのが大学という場所だ。そのためには、前段階として先人たちの残した研究の結晶である論文や書物を読む必要がある。その学生に、今まで投げ出してしまった本を一冊選んでごらん、難しい言葉は勉強する手伝いをするよ、と伝えたら、途端にホントですか、と目を輝かせた。

 来週はどんな本を選んでくるか楽しみだと思いつつ新幹線に乗ったところで、ハタと、研究室の冷蔵庫に入れたままのお弁当を思い出した。空腹をすっかり忘れて、学生と話していたのだ。体は疲れたかもしれないが、充実したいい気分だった。食いしんぼうの私が食事を忘れるほど、学生と集中したコミュニケーションが取れたことを、うれしく感じたのだった。

2010.6.6 sun

「デッドライン」再考

 日本とアメリカを往き来するうちに認識をあらたにしたのは、「デッドライン」すなわち「締め切り日」の厳密さである。日本でも「絶対」に締め切りを守らなければならないケースはもちろんあるが、「事情」あるいは「個人」によって、締め切りは必ずしも守られない。

 例えば大学のリポート。締め切りはあるものの、学生に「すみません、書いてきたんですけど家に置いてきて」と言われると、つい「明日でいいよ」などと答えてしまいがちだった。ところがこの2年あまりアメリカの大学院を見て、とてもそんなことは言えなくなってしまった。

 アメリカの場合、デッドラインは厳密である。何度も確認して日付が通知されるから、その日に持参するかメールに添付しなければ、「やっていない」あるいは「集中力欠如」と評価される。事情だの、何だのというグレーゾーンや情状酌量はない。

 日本では、このスタイルは融通がきかない、とされる。昨日、リポートを忘れてきた学生に「明日ではダメ」と答えたら、どうもとんでもなく「ものわかりの悪い」、頭のカタイ教師と思われたようだ。だが、日本方式をアメリカで通そうとしたら、信用はなくなるだろう。特に自分で締め切り日を決めておきながら守らず、できない理由を明確にしなければ、失格になる。普天間飛行場問題での鳩山首相は、このままだと、単に移転先が決められないだけでなく、国際社会のルールを守れないという負の評価を下される。

 それにしても、飛行機や電車の時間は極めて厳密なわが国で、政治や学生のリポートの約束日が守れないのはどうしてか? 答えは簡単。国民や教師が「まあいいでしょう」と、物わかりよく許してきたからである。ささいな積み重ねが、国際社会のコミュニケーション不全の引き金にもなる危険性を痛感している。

2010.5.30 sun

People, politics in my way at lab

Dear Troubleshooter:

I'm a postgraduate student in my 30s and I'm concerned about the interpersonal environment at the university laboratory where I work. I am one of two women there. There also is the professor─a man─ several male university employees and other postgraduates, most of whom are foreigners.

I suspect the professor and the other woman there have a sexual relationship. I assume that is why the professor lets her get her way and gets rid of anything she doesn't like.

She is a competitive, hard-working woman. But she does not like it when somebody else does a better job than she does and tries to get rid of anybody who does. A number of people have actually quit the lab over this.

Now she is targeting me. I've been trying to ignore these interpersonal relationships and just focus on my studies, but to no avail. I am uncomfortable every day.

I need to remain at the lab for at least another two years. But I am already exhausted.
D, Tokyo



Dear Ms. D:
I can understand your feelings; university labs are close quarters and you rarely come into contact with the outside world. Having worked at a number of university labs myself, however, I can tell you there is no such thing as a perfectly comfortable laboratory. So, the issue is how we can make it a more comfortable environment in which to work.

First, you need to change how you think about that woman. You regard her as a hard worker, but you also presume she is having an affair with your professor and gets rid of people who stand in her way. If you keep thinking of her as obnoxious and someone to be avoided try will take notice. Why don't you instead try saying hello and try talking to her. Maybe then she will change.

Second, it is important to make friends at the laboratory. I also recommend you talk more with the foreign students, too.

At laboratories, you are always bound to run into people you can't deal with. If you learn to associate with them, you will be able to have a good relationship with anybody in the future.

You should do what you can to make your lab a better work environment, and think of it as a lesson for the future.

Junko Umihara, psychiatrist (from May 5 issue)

Translated from Yomiuri Shimbun Jinsei Annai column
2010.5.5 wed

仕事という修行

 5月の連休中、久しぶりに数人の若者と会う機会があった。おい夫婦と元ゼミ生、そして3年前まで私の仕事を手伝っていた元スタッフである。

 10年前、ちょうど働きはじめたばかりのおいは無口で頼りなく、これで大丈夫かなと内心心配していたが、いつの間にかしっかりとし、無愛想であいさつの苦手だっためいも、すっかり明るい社会人になっていた。元ゼミ生もきちんと大人になり、「春になると体調が悪くなるから仕事を休みまーす」としょっちゅう休んでいた元スタッフは、私がアメリカに行くようになってから別の企業に就職し、今度は休まずに仕事をしている。おのおの大人になり、生き生きとしている姿をみて、社会、そして仕事を通して、若者たちは成長したんだな、と実感した。

 学生はもちろん、身内相手やアルバイトでの仕事も、ついつい甘えが出てしまう。ちょっと調子が悪い、と休んだりサボっても、文句を言われることはあるが、大抵は大目に見てもらえる。仕事を放り出しても学生だから仕方ないか、と許される。

 責任を持って働くのは一種の修行だ。体調がいいときも悪いときもある。好調なときにいい仕事をして一発勝負、というわけにはいかない。不調の日にどう自分と向き合うか、という修行の場が仕事である。元スタッフに「もう、春だからって理由で休まない?」と聞いてみた。「休もうかなと思う時もあるけれど、でも行ってます」と、笑って返事をされた。

 無理はしない、でも甘えはしない、という自分とのつきあい方、まわりや社会とのかかわりは仕事で磨かれる。私自身も、仕事を通してどんなに成長させておらっただろうと思う。それは仕事自体より、自分や周囲とのつきあい方、生きる姿勢の修行だった。今、若者の就職率が低くなっている。若者から生活の場、修行の場を奪わない政治を強く願っている。

2010.5.23 sun

ツイッター亡国論

 米国滞在から日本に帰ってちょっと驚いたのは、ツイッターに対する過剰反応と否定的見解の多さである。週刊誌の見出しには「亡国論」とまであり、びっくり。研究室の仲間にその話をしたら「なぜ?}と不思議がられた。

 というのは、この2月末にハーバード大学の研究室で「禁煙情報」をツイートするアカウントを立ち上げ、健康に関するコミュニケーションの一環として、この新しい通信手段を使っているからである。「ツイッターを立ち上げたから、フォローしてよ」というメールがスタッフから送られてきたばかりだ。つまり、私たちにとって、ツイッターは健康に関する正しい情報を流せる手段という認識である。

 ご存じない方のため簡単に説明すると、ツイッターとは、140字以内にまとめた情報をインターネットに流して、それに興味のある人は、情報源をフォローできるというもの。つまり短い情報を最新の状態で得ることができる手段である。

 まちがってはいけないのは。「手段」や「技術」自体が「亡国」するのではない、ということだ。たとえば車は有効な交通手段だが、人間が下手に使えば凶器にもなり、大気を汚染し、運動不足をひきおこす。車は亡国しないが、使う人間の資質が亡国のもとになる。とするとツイッター亡国論を唱える人は、日本人には、ツイッターを使いこなせないほど愚かな人が多い、と唱えていることになる。

 インターネットは有効だが、使う人によっては依存的にも犯罪源ともなる。ツイッターも同じだろう。上手に利点を利用し、どのように使えば人々の幸せに貢献するのかしっかり研究していくことが必要だろう。ということで、最近ソーシャルネットワークと健康についての研究チームをスタートさせた。やたらに拒否反応を示さず、新しい通信手段の平和利用を目指したいものだ。

2010.5.16 sun

思考回路の違いから

 小学生から英語義務教育がはじまるという。コミュニケーション能力を高めるため、とのお題目だが、語学力=コミュニケーション能力ととらえるならば大間違いである。

もちろん、言葉と語学力が大切で不可欠であることはたしか。しかし、外国人とのコミュニケーションには思考回路の違いを認識しなければならず、それ抜きだと大失敗する。ちょっと食事をしたり、旅行先で表面的なおつきあいをする分には支障もないが、ビジネスや政治では大変なことになる。

 鳩山首相とオバマ大統領の一連の基地問題にかかわる会談でも明らかだ。国立大を出て留学経験のある鳩山首相だが、日本でしか通用しないスタイルを使ってしまったのだと思う。アメリカではイエス・ノーをはっきりさせるのが大切、とは誰もが知っている。しかし、なぜそれが大切かを認識している人は少ない。

 アメリカでは、政策でも方針でも、まずフレームワークを確定させるのが最重要だ。ノーというフレームを作り、それに沿って内容を決めていく。「トラスト・ミー」と首相がリップサービスしてしまった一言は、イエスと見なされる。内容の詳細は変更可能だが、枠組みを崩すと全く信用されない。

 第二の失敗は、これまた日本なら通用するスタイルで、「何となくやっているふりをしていればわかってくれる」というもの。いくら努力の姿勢をみせても、結果を出さなきゃ通らないのがアメリカ社会。夜遅くまでの仕事を「偉いね」とは言ってくれない。結果を出さないと能力不足という評価だ。

 第三は期日。いわゆる締め切り日である。アメリカ社会は締め切り日を大切にする。時間がきたら病院も閉まってしまう話は前にも触れた。締め切りを守れなかった人に、「まあ仕方ないね」とは言ってくれない。語学力だけでは足りない能力があることを知ってほしい。

2010.5.9 sun

空気の読み過ぎ

 ボストンは東京にくらべるとショッピングセンターも少ないし、いわゆる遊び場が限られている。ちょっとした息抜きといえば映画館くらいだが、さほど時間にゆとりのない私の楽しみは、カフェを併設した大型書店で、立ち読みならぬ座り読みをすることだ。

 買って読むほどじゃないが、でも読みたい本を、コーヒーを飲みつつ読む。その合間に原稿を書いたりするのは、なんとも楽しい日曜の昼下がりである。そんな一冊、「失敗談」をまとめた本にこんなエピソードがあった。

 スーパーマーケットで大きなカートに山のように食料品をのせて歩く女性がいた。そこで自分は、「あら、こんにちは。これからすてきなパーティーをなさるんですね」と陽気に声をかけた。すると女性はニコリともせずに、「昨日夫が亡くなって今日は葬式で人が集まるんです」

 笑うに笑えないこの失敗。こんなこと日本人は絶対に言わないだろうな、と思いつつ読んだが、いかがですか。

 日本人は空気を読む。いくらカートに山ほど食料品を入れて運んでいたとしても、その人がニコリともしていなくて暗い気配を感じたら、声などかけないだろう。つらそうな顔をみたらそっとしておく人がほとんだだろう。こうした空気を読む習慣は相手への配慮にもなるが、逆に過剰に空気を読んでばかりいると疲れ切ってしまう。

 組織に勤めていて疲れ切るのは、多くはこうした「空気の読み過ぎ」によるものだ。空気を読み過ぎ、周囲に気をつかいすぎ、自分の言いたいこと、やりたいことをおさえこんでいるうちに調子を崩してしまったりする。ほどほどにしたいものだが、伝統的に読み過ぎの習慣がついてしまっているから修正がむずかしい。そんな時は、意識的に「空気を読みすぎない」時間を作ってはいかが。ふだん「読み過ぎ」の方は、そのくらいでほどほどになるはずですよ。

2010.5.2 sun

異文化のペース

 アメリカと日本の往復で仕事をしていると、ボストンに着いてしばらくの間、そして日本に帰ってからしばらくの間は、何となく調子がヘンである。時差ボケではなく、仕事の流れがスムーズではないのだ。

 この原因は一体何だろう、と考えて気がついた。アメリカにいるとき、周囲のペースにあわせようとすると調子がヘンになり、日本に帰って来て、自分のペースで仕事をすると周囲とぎくしゃくするのである。

 発言も同じ。アメリカの研究室でみなの意見を聞きながら自分の発言のタイミングを探していると、いつの間にか論点がかわってチャンスを逃す。つまり、アメリカでは、自分のペースを守らないと疲れるし、日本にいる時は、相手にあわせることが大事なのだ。

 私は長年日本で生活しているから、無意識のうちに「相手にあわせる」スタンスが身についている。仕事柄、相手の意見や話を聞く態勢ができていて、その無意識レベルの刷り込みが原因になってアメリカに着いてしばらくの間は、自分のペースを作るのに手間どってしまう。しかし、何度も行き来しているうちに、次第に自分のペースを早めにつくることに慣れてきた。

 ところが皮肉なことに、今度はアメリカから帰ってきた時にちょっとしたトラブルがおきる。はっきりとノーと言いすぎて相手をびっくりさせてしまうのである。先日も若手の出版編集者に、「その企画は私がやるような内容ではないですね。できませんね」と言ったら、横柄な人間だと思われて、企画のやり直しも持ってこなくなった。

 ああ、この言い方は日本では通らない、と苦笑い。異文化の間でおきる適応障害の背景には、こうした心理的な差、自分のペースか周囲にあわせるか、はっきり言うか、やんわりとあいまいに言うかの差もあるだろう。海外生活帰りの方たちとかかわる方の参考までに。

2010.4.25 sun

「自転車ルール」の秘密

 青信号で横断歩道を渡っていたら、いきなり目の前を、猛スピードで横切った自転車があってヒヤリとした。そして、またか、と思った。
 ボストンは自転車を利用する人が多い。大雨や雪の日に乗る人はさすがにいないが、少し気候がよくなると自転車人口が増える。そして日本も共通しているが、不思議なルールで自転車を走らせる人が実に多い。

 まず、信号無視。車道を走っているのに、止まった車の横を赤信号でもスイスイ走り抜ける。赤信号になると突然方向をかえ、逆方向に突っ走る。一方通行の車道を猛スピードで逆走。車のルールとも歩行者のルールとも違う独自のルールで走るから、気をつけていないとぶつかってケガをする。

 東京でもしばしばこわい自転車に出合うので、万国共通だなぁと苦笑する。そして、これは一種の「制服効果」だなあ、と思ったりする。制服効果とは、制服と自己が一体化して、個人の感情や感覚を失ってしまう、というもの。

 例えば、兵士が制服、戦闘服を着て、整列して
行進する時、個人の感情や道徳観は抑圧されて制服と一体化する。スーツを着てネクタイをしめたり、イブニングドレスを着れば気分がかわり、ビジネスマンやレディのように感じられることでもわかるだろう。いい意味でこれを利用することもできるし、逆のこともある。

 自転車の場合、ふだん車を運転したり、歩いているときには赤信号で止まる人も自転車と一体化してしまい、「どちらのルールにも従わない」ルールで自転車を走らせてしまうのではないだろうか。
 自転車を利用する方は、ちょっと自分の心理を観察してみていただきたい。というのは、最近、東京では、子供を乗せて「自転車ルール」で走っている女性をみかけて、危険だなあ、と思ったりするからだ。制服効果は、いいことに使いたいもの。ご注意を。

2010.4.18 sun

新型インフルエンザと米国

 新型インフルエンザ大作の成功で、死亡者が少なかったと対策本部が発表していた。果たして対策の成果か、ウイルスが弱毒性だったためか、しっかり検証しないとまずいなぁ、と思う。

 というのも、病気予防のキャンペーンの枠組み作りで、日本は残念ながら後れをとっている。アメリカの新型インフルエンザ対策キャンペーンは、お見事だったと思う。キャンペーンによって、人々の行動にははっきり変化が表れたのを目のあたりにしたからだ。

 とにかく、人々は洗面所でよく手を洗うようになった。それも、いわゆる知識人層だけでなく、低所得層の集まるショッピングセンターでも同じだった。インフルエンザ流行前、手にしっかり石けんをつけて何秒か洗う人は少なかったのに。

 第2に、手を消毒するグッズが薬局に登場した。かつてはみられなかった新商品である。
 キャンペーンは明快で、手洗い、うがい、くしゃみとせきは自分の手と腕でガードする、ワクチン接種を受けよう、というもの。日本ではもうどこも報道しなくなった3月中旬も、「インフルエンザの季節はまだ終わっていません」と、手洗いのすすめを地元ラジオ、地下鉄やバス、ショッピングセンターのポスターがくり返していた。

 とにかく徹底しているのは、メディアが多様化していて、ヘルス情報を送る手段が多いためもあるだろう。日本人は健康意識も高いし、清潔好きだ。
 しかし、ことがおこった時の対応は徹底しないことが多い。東京では、インフルエンザ流行時もその後も、洗面所できちんと手洗いする人が少ない。

 ポイントをしぼり、きっちり伝えたいことをしつこく伝える、というのが健康キャンペーンの枠組みだ。実はこれは、政策キャンペーンの枠組みの成功例と共通している。一過性の情報を大漁に流して、あとはフォローしないわが国のメディアや政策は、一考が必要だ。

2010.4.11 sun

Alfieライブ

 4月5日のAlfieライブの写真です。









2010.4.5 mon

緊張でしか生きられない

 今年のアカデミー作品賞を獲得した映画「ハート・ロッカー」は、ハーバード大の研究室でちょっとした話題になっていた。なにが話題だったかというと、映画の主人公に性格傾向だ。

 普段、戦争映画や残酷な場面のある映画は絶対に見ないが、「見て感想を聞かせてよ」と言われたこともあり、自分の専門分野である性格傾向のことでもありで、意を決して見てきた。映画は、イラクで爆弾の処理をする兵士が主人公。彼は死を恐れず、あえて危険な場面に自分を追い込んでいく。

 戦場で驚異的な数の爆弾を処理する有能な兵士だが、部下との関係はよいとは言えない。そして、問題となる彼の性格傾向である。見ていてなるほどと思ったのは、彼の性格が、アメリカで最近問題となっている「センセーション・シーキング」という傾向だということだ。

 この傾向は、絶えずハラハラ緊張していないといられない、ゆったり過ごすことができず、車を暴走させたり、酒やドラッグにおぼれ死と隣合わせのところに自分を追い込まないと生きている実感がわかない、というもの。事故や犯罪につながることも多いので「センセーション・シーキングで死に向かうのはやめよう」というキャンペーンがテレビ放送されているほどだ。

 映画の主人公は、まさしくこれに当てはまる。戦場にいないとき、彼はゆったりと過ごせない。戦場でも現場が終わると、彼は大音量で音楽を聴き、たばこをふかし、部下と殴り合いをしないでいられない。

 一般社会では問題児のはずの彼が戦場では英雄。戦争でしか彼は生きた実感を味わえないのだろうか。アメリカ社会の心のひずみを描いている。戦争というゆがみが結果主義の国の生んだ心のゆがみと共存する皮肉が痛い。ゆったりと時を過ごせない若者は、日本でも増えている。問題は根深い。

2010.4.4 sun

結果がすべて、ではなく

 アメリカの大学の研究室では「publish or perish」(出版か死か)という風潮がある。つまり、大学の研究者は論文を発表しなきゃダメ、論文として学術誌に載らない研究はゴミ、という訳だ。したがって、論文や書物を発表しない大学教授や准教授は研究者として認めてもらえない傾向が強い。

 とくにハーバードなどでは、教授たちは実にせっせと研究して論文を書く。どちらかというと、学生教育で「いい教授」と評価される日本とは、やや違う。研究して論文を発表するのはすばらしいが、アメリカ社会には「結果主義」の傾向が強い。

 すべてに結果を出さなきゃダメ、全か無か、という思考は利点も多いが問題も多い。オリンピックでアメリカ選手がメダルを多くとるのは、「結果主義」の思考性の中で育ったからだろう。参加するだけなんて意味がない、メダルをとらなきゃ税金のムダづかい、との無意識が、エネルギーになるのだろう。オリンピックは参加することに意義があると教えられてきた我々とは、違う思うがあるのかもしれない。

 日本は甘い、結果を出さなきゃ意味がない、という人も最近は増えてきた。しかし、努力しても結果が出ないことはたくさんある。結果が出ないとダメ、結果を出せない人間は無能、などと考えると、これは大変だ。結果を出せないと生きるのがつらいし、結果を出せる人は、出せない人を否定する。結果のために無理をしたり、薬を使うこともある。大体、結果とは何か。メダル、利益、偏差値と目に見え、数字やもので表せるものばかりだ。

 メダルをとれなかった選手をテレビで応援したり、はらはらしたり、ときには批判するひとときを楽しんだ人も多いだろう。そんなひとときは数字で表せない。けど、大事な一瞬だ。いいじゃない、結果を出せなくても、という私は多分大甘ですね。

2010.3.28 sun

効率と「ながら食べ」

 アメリカ人は「効率的」という言葉が好きだ。研究でも日常生活でも効率という言葉にすぐ出合うのだが、何といっても、時間を効率的に使うことにしのぎを削っているように思える。一見よいことのように感じられるが、みなさんはいかが。

 例えば、アメリカでは「ながら族」をよくみかける。食べながら何かしている、というパターン。
 私のいるハーバードでもそんな風景に出合う。なぜなら、ハーバード大大学院には、「お昼休み」がないのだ。院生は朝から1単位3時間程の講義を受け、午後もそのまま次の講義に出たりする。だから、12時ころには机にお弁当を広げ、食べながら聞いている。ダナ・ファーバー研究所でも、ランチタイムレクチャーという外部講師による勉強会がある。これもピザなど食べながらきく。

 食事の時間なんてとるのは効率的じゃないから、一度に2つのことを同時進行しましょうという訳だ。ハーバードの関連病院のロビー階で迎えのバスを待つ間も、多くの人々は何かをつまんで口にしている。待つ時間を効率的に使う、という無意識の方向性が働いているのだろうか。

 私自身は、こういう類の効率化はしない。食べながら何かすると食事の楽しみも減るし、同時進行している別のことも集中が減るように思う。しかし、プログラムが効率優先で組み立てられ、食事の時間もとれなくなったら「ながら族」もやむなしとなる人も多いだろう。これでつく食べながら何かをする習慣が肥満につながるのだろう、と思ったりもする。

 日本でも、アメリカのあとを追いかけ、模倣してきた効率化の波によって、「一つのことを大事に集中してする」という概念がないがしろにされるのが心配だ。ティックナットハンという僧の言葉「歩くときは歩くことに、みかんの皮をむくときはそのことに集中しよう」を思い出したりする。

2010.3.21 sun

工夫しながら過ごす

 ボストンで朝一番にするのは、地元のFMラジオのスイッチをいれることだ。数分毎に流れる天気予報を聞くためである。

 冬のボストンの気候は本当に厳しい。寒いのはもう慣れっこだが、天気がかわりやすく、朝晴れ上がっていても昼過ぎから突然雪嵐がやってきて夜はまた晴れて月が出る、みたいなことは日常的。雪の後、夜になって晴れると道はカチカチに凍ってスケート場になる。ここにきて、2週間で2本の傘が雪で壊された。傘の骨が折れるのでなく、傘が途中から折れて飛んでいってしまったのだ。雪嵐はすさまじく、体重の軽い私は夜、風が強いとリュックの中に辞書やら何やら重いものを入れて飛ばされないように工夫する。

 こんな日はアパートに帰りつくだけで精いっぱい。食料の買い出しにも行けないから週刊予報を調べて計画を立てる。お天気と相談しながらの生活は不便だが、気づいたことがある。それは「自分の力でどうしようもない相手といかにかかわるか」ということだ。東京にいる時のように、自分の食べたいものをその日に買うなどということはできない。だから、工夫しながら天気とかかわり、どうしようもない時は「まあ仕方ないか」とあきらめる。そして天気のいい日をうれしく過ごすという感覚が大切なのでは、と思う。

 日本では、「お金で何でも買える」と思っている若者も増えている。気候が温暖で、自然を人間がコントロールしているかのように感じ、道具や機械が発達し、何でも便利になった日本ではそう思うのも無理はない。自分の思い通りにならないとイライラするのは、思い通りにならないことや相手とかかわるのに慣れていないからである。

 便利さと機械の発達と恵まれた環境故に失ってしまった感覚、退化した感覚は多い。工夫しながら過ごすという、ある種創造的でシステマティックな能力をとり戻したい。

2010.3.14 sun

環境の影響で

 かつて、外でお酒を飲んで帰ってくる夫に、妻は「家にもお酒があるのにどうして外で飲むの」と文句を言ったものだ。確かにそうなのだが、行動には環境が大きく影響する。

 日本の自宅でも、パソコンで職員パスワードを使いハーバード大学から文献をダウンロードできる。だが日本にいると、日々の業務に追われてじっくり文献を読むこたができない。週末のボストンでも、アパートで部屋にいるとミーティングの資料を作れないが、近くの大型書店内にあるコーヒーショップに座ると突然原稿が書ける。

 そこで、今もそんな状況で仕事をしている。周囲はパソコンを持ちこんで仕事をする人や文献をよむ人ばかりで、世間話をしている人は1割以下だ。あらためて、ものごとには周囲の環境が影響することと、人は一人一人別々の存在ではなく連動しあっていることに気づかされる。たとえばここで、ものを書いている時、いかに集中していても、隣でバナナなどを食べはじめ、足を投げ出して本を開く人がいると、集中がさえぎられてしまうのだ。

 周囲に集中して勉強する人がいれば、その気分がまわるに伝わるし、幸せな気分の人はまわりにもそれが伝わる。逆にイラオラしたりだれている人の横にいると、こちらも影響を受ける。音やにおいの他に「気分」も目に見えないが人と人をつないだり、ブロックする要素になるのだとう。

 あくびは伝染するとよくいわれるにはそうした意味なのだろう。外でお酒を飲むのは、お酒そのものの他に、解放された気分を共有したいという願望にほかならない。子供に勉強しなさい、といいながら自分はテレビを見ていても、子供はその気にならないだろう。

 というわけで、今年度のゼミ募集には、あえて「しっかり勉強したいと思う人」、卒業研究には「研究したい人」と注意書きを加えた。

2010.3.7 sun